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前回12巻まで読み終えて「了」を付けなかったのは、今回、初めてこんな番外編が存在することを知って、取り寄せ中だったためでした。

ガブガブの本

ブタのガブガブが「食べ物語」を語る全十夜のお話。

読み初めの第一夜は、訳の違和感(冒頭ダブダブの台詞「あのブタはやっぱり私を殺します」は直訳過ぎるでしょう)が拭えず、最後まで読む気力が続かなかったらどうしようと思いました。
が、第二夜ではブタのマドンナ「パトリシア・ポートリー」とポルトガル民話「石のスープ」をスープを煮込むようにじっくり聞かせて場を温め、第三夜「トマト戦争」からは本領発揮と言う感じで楽しく読めました。ガブガブのお話の筋自体も面白いし、なにより動物達の丁々発止のやり取りが愉快で一息に読んでしまいました。
第四夜から五夜に掛けての「食べ物ミステリー」は、新聞記者のハムが犯人じゃないかと睨んでいたのですが、まったく関係なかったあたり、ガブガブのお話っぽいなぁと脱帽です。
ドリトル先生は作中には地の文でしか登場せず、第一夜こそトミーが関与してますが、それ以降はほとんど動物達だけと言うのも、新鮮で良かったのではと思います。

ただ、前述の通り石井桃子&井伏鱒二両氏の訳と異なる部分があり、「シロネズミ」という表記(本編訳では「白ネズミ」)に一瞬悩んだり、沢山出て来る人物名が英語読みそのままで原書の面白さが感じられなかったりはしました。
なお、「現代娘(フラッパー)」と言う読みが出て、驚いて刊行年を調べたところ1932年でした。ロフティングって、フィッツジェラルドやヘミングウェイに近い世代だったんですね。

これにてドリトル先生シリーズ再読キャンペーンは終了致しました。
読んでいる最中は、性格的に合わなくて先生にイライラすることもありましたが、後半の巻になると段々その辺の折り合いが分かってきたのと、動物が自分以外の種に対して排他的なことに関して語る辺りで多少感銘を受ける部分がありました。
また15年後くらいに再読すると、印象が変わって楽しいかも知れない、と未来を楽しみにしつつ本棚の奥に仕舞い直したのでした。

「沼のほとりのパドルビー」はこの世に存在しないと言う基本的なことを、この歳になって初めて知りましたよ。

ドリトル先生と緑のカナリア

ピピネラの人生は凄い山あり谷あり波瀾万丈で、本当にオペラに相応しい一代記だと思います。舞台作品として作れないものですかね。猫(キャッツ)やライオンやサル(ライオンキング)は出来るんだから、鳥だって……と思う反面、鳥には「空を飛ぶ」と言う基礎アクションがあるのが難易度高いですね。
「籠の鳥」にこんなドラマチックな生き様を与えた作者の想像力に脱帽します。

ドリトル先生の楽しい家

全集で唯一の短編集ですが、長編の中でも、この巻と同じように動物の語る冒険譚など短い物語が織り込まれていたので、違和感なく読めます。
やはり犬が好きなので、この巻は犬話が多くて嬉しいですね。
お話として面白いと思ったのは「気絶した男」と「虫ものがたり」かな。後者は虫嫌いの麻生でも、ウジ虫の身に降り掛かる様々な困難を手に汗握りながら読んでしまいました。
小ネタでは、グーグー人の「フラグーゼルムの59の呪い」が、微妙に可愛くて好きです。内容は結構危険ですけれど。

……手持ちの全12巻の再読は終わりましたが、感想記事は、もう一回続く予定です。

ドリトル先生月へゆく

今では、現実の月の世界がどんなものか分かってしまっていて、こんな光景は広がっていないと分かっていても、不思議と説得力がある異世界だと感じます。
謎に満ちた世界で、周囲には姿を現さない監視者、招かれた目的も不明、と言うミステリー的な雰囲気が漂っていて、先が気になって一日の読む予定量を超して読み進めてしまいました。
巨人の正体が分かった時は、だからオーソの話をおさらいしたんだ、とやっと気付くくらい鈍いので、推理力は全然ありませんでしたけれど。

ドリトル先生月から帰る

この巻前後はかなり直接的な反戦メッセージが盛り込まれていますね。ロフティング自身の戦争体験からか、平和への想いが深く込められていたのだなぁと気付きました。
バンポ王子には以降出番がないんでしたっけ。なんだか寂しいですね。月のことで、あんなに怯えていたくらいだから、先生とトミーが突然いなくなった事に責任を感じていないと良いのですが。
それに、動物園にいっぱいいた動物達は、どこへ行ってしまったんでしょう。
月三部作は、先生の研究意欲や姿勢が分かって面白く読めたのですが、帰って来た先生が、執筆時間捻出の為に牢屋に入る件は、少々ムッとしました。児童文学なのに主人公が意図的に犯罪を犯して良いのか、なんて事より、囚人の食事も警察署の窓代も税金だぞ!と言う憤りですが(苦笑)。

ドリトル先生と秘密の湖

これまた「月から帰る」から直接続くお話である事を忘れていましたが、読み始めると段々展開を思い出せました。
楽しい旅路もあるけれど、メインはやはりドロンコの語る大洪水ですよね。
「郵便局」再読時は夢にも思わなかったココ王の再登場が凄く嬉しかったです。それに、先生を無理に引き留めることもせず頼みを聞くなど、実に大人の対応で、改めて好きになりました。

ドリトル先生のキャラバン

初読時に「サーカス」と並んで凄く好きだった一冊です。
舞台とか物作りと言う要素が自分の好みだと言う点はありますが、ピピネラの一生自体が凄くドラマチックで面白いですよね。
でもこのお話、今回読み直しで気付いたけれど、もし「緑のカナリア」が発行されていなかったら、ピピネラの飼い主探索に至らず、ちょっと消化不良気味ですね。

ドリトル先生と月からの使い

私は、読んだ本の内容を良く記憶している自信があるのですが、「月からの使い」を読み始めたところまったく展開の記憶がなくて「……あれ?」と思いました。
事前に思い出せたのは、使いが大きな蛾であることと、トミーが密航することだけでした。
「月」タイトルの巻は3冊もあるのに、残る2冊も覚えてませんよ!
つまり、それだけ熱心に読まなかった=面白いと思わなかったと言う事だと思いますが、今読み直すと、どう展開するか分からない上に、全体に不思議な空気感が漂っていて、なんとも言えない味わいがありました。
先生の主義も、最近段々と無意味な反感を持たずに飲み込めるようになって来た気がします。
ただ、虫語の研究だけは勘弁して欲しいですね。毎度の事ですがダブダブに心から同情します。

ドリトル先生のサーカス

オットセイのソフィーの逃亡幇助に関しては、相変わらず如何なものかな?と思うのです。ソフィーの飼い主は金を払ってソフィーを手に入れたんだろうに、それを動物愛護だからと盗み出していいのか? 先生が本気で動物の為に立ち上がろうと思うなら、動物の捕獲と売買を禁止する運動を始めるべきでは、と思います。先生が元々医者と言う職業である為か、全てが対処療法なんですよね。
と、一通り文句を言っておきながら、後半のドリトル・サーカスに関しては、凄く好きな一冊です。
初読の時からも「サーカス」「キャラバン」が一番好きだったような記憶があります。
ところでブロッサム団長に騙されたまま終わってるのは、児童文学としてOKなのでしょうか?

ドリトル先生の動物園

前半はほとんど短編集のような、動物たちの小話。後半はちょっと推理もの、と言う変わった構成。
泥棒犬にして探偵犬のクリングと対面したマシューの反応は、なにを意味しているのかな、と色々想像が広がります。一番単純且つ無理がないのは、クリングを泥棒犬として仕込んだ泥棒がマシューと言う読み取りなんですが、もっと面白い説があれば是非教えて下さい。
オチが明確にされていないため、よく分からなかったのですが、財産は、先生が相続したと言う事なんですよね。まぁ、あるだけ使ってしまう先生なので、これもどのくらいの期間保つかなと言うところですが。