男は唐突に立ち上がった。
余程慌てていたのか、肘をカウンターにぶつけた挙げ句、注いでやったばかりのブランデーをすべて零しながら。
「あの人だ……」
茫然とした呟きが漏れる。誰何すると、彼、バーガーはようやく自失から脱し、長身を折り畳むようにして座り直す。だがなかなか口を開かず視線だけで辺りを見回す様子に、サッシャは察して耳を寄せた。
それでも幾度かの躊躇があった後、低く潜めた、けれど隠し切れない熱量を持ってバーガーはその名を告げた。
「ヴィクター・ラズロが来てる!」
それはあまりに著名な名である。
「ラズロ? あの? 本物か?」
思わず問いを重ねると、バーガーは大きく頷いた。
「新聞記事で見た顔と一緒だ」
この純粋なノルウェー人が大切に折り畳んで何時も持ち歩くスクラップのことなら、サッシャも知っている。親指の爪くらい小さな写真が載った、レジスタンスの雄の死亡記事。一体どれほど読み返したのか、擦り切れて顔など判別できるものでなかったが――
その時、フロアからシャンパン・カクテルの注文が合図され、サッシャはグラスに角砂糖を一つ落とした。
甘い音が会話を打ち切り、バーガーはもう一度カフェの入口に目を向けると、噛み締めるように呟いた。
「生きていたんだ!」
その声の小ささに反比例するように、口調は強い。
彼の眼差しが見ているのは、最早人でない。レジスタンスを導く希望の光だ。瞳が帯びた熱は頬に伝播し、自然と微笑みを浮かべている。ビターズの付いた指先を舐めて、サッシャが苦味に顔を顰めたのとは正反対に。
ふと、フランス娘の肩を抱いたドイツ兵が視界の隅に映り、サッシャはわざと声を上げてバーガーに呼び掛けた。
「もう酔ったのか? 」
「あ、いや……」
何時何処に「敵」の眼や耳があるか、彼等は注意を怠ってはいけない身だ。
興奮を収めようと、バーガーの手がグラスを探して彷徨う。だが、彼が見付けたのは、大切なブランデーをカウンターが芳香ごと平らげてしまった跡である。
サッシャは仲間の友誼に免じて、出来上がったシャンパン・カクテルを差し出した。
彼等の明日を照らす光明に、乾杯するために。
祝・「カサブランカ」東京初日。
元々新聞記事の写真云々と言う下りを思い付いて、別のネタの中で使っていたのですが、そのSSは直ぐ仕上がりそうにないので、抜き出して変形。そっちのSSで生じた穴はどう埋めようかな。
なお、実際の舞台演出では、バーガーの仲間ファティマがラズロを見付けて、カウンターへ知らせに来てるらしいのですが、一回の観劇ではそこまで見てなかったのでご勘弁下さい。明日、自分で確認する前に書き逃げです。